レイモンド・スコットを「レイスコ」と呼ぶ。あるいは、「レイスコ的な音楽はありませんか」と、あちこちのレコード屋で探している人がいる。そんな行為が、日本人音楽愛好家たちのあいだで定着していること、もしあの世にいる本人が知ったら、どう思うだろう?
そのことは裏を返せば、20世紀のアメリカン・ミュージック史では、ほとんど無視されてきた存在であったはずのこの音楽家を、現代のぼくたちがそれくらい親しく思っているということの証明なのに違いない。1908年生まれの作曲家、ピアニスト、アレンジャー、プロデューサー、コンダクターであると同時に、工学エンジニアであり、さまざまな電子楽器を作り出した天才発明家でもある。だが、肩書きがいくら多彩でユニークでも、やはりその作品に惹かれるものがなければ、だれも彼のことを「レイスコ」なんて呼んで愛したりはしないはずだ。
そもそもレイモンド・スコットの偉業(と、彼にまつわる数々の謎)に、現代的な焦点が当てられるようになったのは1990年代前半のこと。レイモンド・スコット研究の第一人者であるアメリカ人リサーチャー、アーウィン・チューシッドの尽力により、91年に米StashからCD『The Raymond Scott Project Vol.1 : Powerhouse』が、翌92年に米ColumbiaからCD『Reckless Nights and Turkish Twilights』(現在はオランダBASTAから発売)が相次いでリリースされた。「Powerhouse」や「Twilight in Turkey」あるいは「The Toy Trumpet」や「In an Eighteenth Century Drawing Room」など、カートゥーン・ジャズの古典という認識ぐらいで一部の好事家にしか知られてこなかったレイモンド・スコットのクインテット時代(1937〜39年)の音源は、このとき初めて意義のある選曲と構成によって世に出たのだ。
クインテット時代のスコットは、演奏に際しては楽譜は用意せず、口伝えによりその場でアレンジを組み上げていた。ミュージシャンに対しては厳しい姿勢で臨んでいたそうだが、バンド全体を彼の楽器として手足のように操ることで、彼の大胆かつ複雑な音楽は譜面の上にある音符を羅列しただけのものに終わらない、生き物のようなダイナミズムを兼ね備えることに成功していた。何よりも、6人編成で本来ならセクステットなのにわざとクインテットと名乗ったり、楽曲のタイトルは揃いも揃ってヘンテコなものばかりであったり、その音楽的振る舞いのいちいちに、音楽をひとつの決まりきった型に押し込めてしまわない自由な発想があった。レイモンド・スコットが、ジャズをやろうと電子音楽をやろうとCM音楽をやろうと絶対に一貫している何かがあるとすれば、それは自分の音楽を閉じたものにしてしまわず、自由に愛してくださいという扉を未来に対して必ず開けておいたことではないかと思う。
その後もBASTAからはレイモンド・スコットの驚愕すべき音源が続々とリリースされている。オランダのジャズ・コンボ、ボー・ハンクス・セクステットによるレイモンド・スコット楽曲集が94年と96年に。97年には、生後0ヶ月から1歳半までの赤ん坊に聴かせるべく制作していた電子音楽作品『Soothing Sounds for Baby』(63年)が3枚シリーズで、さらに2000年には50〜60年代に制作しながら、その大半が未発表に終わっていた膨大な電子音源を集めた『Manhattan Research Inc.』が2枚組で。その後も、02年にクインテット時代を中心とした未復刻ラジオ音源集『Microphone Music』、03年にはジャズ・コンボ、シークレット・セヴン名義のレアな作品『The Unexpected』(60年)、07年にはストリングス・オーケストラ作品『This Time with Strings』(57年)と、順調に復刻は続いており、近々、またまた何やら驚愕のリリースを準備中とのウワサも聞く。
レイモンド・スコットは、1994年2月8日に85歳でその生涯を終えたが、今なお発掘され続けている彼の遺した膨大な作品と音楽制作に対する姿勢への共鳴は、ぼくたちのなかに宿る「レイスコ的なもの」を今も力強く呼び覚まし続けている。
松永良平(リズム&ペンシル/ハイファイ・レコード・ストア)
レイモンド・スコットが出演したエディ・キャンター主演映画『アリババ女の都へ行く』(1937)日本公開時の広告より
ハリウッド映画に多数出演した事で、戦前の日本でもレイスコはとても人気があり、雑誌などにもよく取り上げられていた。また吉本興業のショウなどでは、頻繁に「トルコの黄昏」や「トイ・トランペット」が演奏されていた。